抗がん剤タキソール全合成の新戦略
緻密な分子設計によって複雑天然化合物を組み上げる
発表のポイント
◆極めて特異な 4 環性炭素骨格上に、非常に歪みのかかった部分構造や多数の酸素官能基を有する天然物であるタキソール(抗がん剤)の新しい全合成を達成しました。
◆新たなフラグメント設計と独自に開発した強力なラジカルカップリング反応を鍵とする収束的合成戦略により、複雑な分子骨格を効率的に構築し、タキソールを市販原料より 28 工程で
全合成しました。
◆本研究で確立した合成戦略を応用することで、今後、複雑天然物を基盤とした創薬研究を加速することが期待されます。概要
東京大学大学院薬学系研究科の渡辺崇央 大学院生(研究当時)、大賀恭平 大学院生、的場博亮 大学院生(研究当時)、長友優典 講師(研究当時)、井上将行 教授の研究グループは、収束的合成戦略(注 1)に基づくフラグメントの分子間ラジカル反応(注 2)と Pd 金属触媒を用いた 8 員環形成反応を活用してタキソールの複雑な分子骨格を高効率的に構築し、タキソールの全合成(注 3)を最長直線工程(注 4)28 工程で達成しました。
タキソール(パクリタキセル)はタイヘイヨウイチイの樹皮より単離され、実際に抗がん剤として広く臨床利用されている天然物です。その強力な抗がん活性は、特異な炭素骨格上の多数の極性官能基の三次元構造に起因します。タキソールの構造的特徴として、6/8/6 員環が高度に縮環した 3 環性炭素骨格上に、歪みのかかった橋頭位オレフィン(注 5)やオキセタン環(D 環)(注 6)に加え、8 つの酸素官能基および 9 つの不斉中心を有することが挙げられます。このように複雑な三次元炭素骨格上に、多数の酸素官能基が密集した天然物を有機合成化学的に組み上げることは極めて困難であり、タキソールの全合成は有機合成化学上、極めて挑戦的な課題です。
ラジカル反応を基盤とした本全合成によって、天然物合成化学における緻密なフラグメント設計原理と新戦略を提示しました。また、多数の酸素官能基で修飾された複雑な構造の中間体にも適用可能な本合成戦略は、他の多くの複雑天然物の全合成へと応用展開可能であり、複雑天然物を基盤とした創薬研究を加速することが期待されます。発表内容
〈研究の背景〉
タキソール(パクリタキセル)はタイヘイヨウイチイの樹皮より単離された天然物であり、タキサンジテルペン(注 7)に分類されます。タキサンジテルペンは、6/8/6 員環(ABC 環)が複雑に縮環した炭素骨格上に歪みのかかった橋頭位オレフィンや多数の酸素官能基および不斉中心を備えた化学構造を共有しています。タキサンジテルペンの中でも最も複雑な構造を有するタキソールは、顕著な抗腫瘍活性を示し、乳がん、卵巣がんや肺がんなどの治療薬として、広く臨床利用されています。タキソール以外のタキサンジテルペンにおいても抗腫瘍活性を有する天然物が数多く報告されており、実際にタキソールと類似の構造を有する化合物が新規抗がん剤として薬事承認されています。有機合成化学的に挑戦的かつ、創薬科学的に重要なタキソールは数多くの有機合成化学者の興味を惹き、50 年以上にわたって合成研究が行われてきました。これまでに本研究グループを含む 14 例の全合成が報告されてきましたが、それぞれの合成例がその時代の有機合成における最新の合成戦略と戦術の変遷を表してきました。2023 年、本研究グループは既に、市販原料から 34 工程でタキソールの全合成を達成しています(Angew. Chem. Int. Ed. 2023, 62, e202219114)。〈研究の内容〉
本研究グループは、この 2023 年に発表した全合成と並行して、タキソールの全合成をより効率化する収束的合成戦略を計画しました。具体的には、新規な逆合成解析により、タキソールの構造を半分に分割し、A 環と C 環のフラグメントを設計しました。これらの新規フラグメントを用いることで、立体選択的な脱一酸化炭素型ラジカル反応、立体選択的な C8-第 4 級中心の構築、Pd(0)触媒による 8 員環 B 環の構築を実現しました。その結果、タキソールの全合成を、28 工程で達成しました。今回の全合成経路では、以前の合成経路から 6 工程削減し、総収率を 5.8 倍に向上したことになります。
本全合成経路では、まずタキソールの A 環と C 環に対応する高度に酸素官能基化された部分構造(フラグメント)を、A 環のアシルテルリド(注 8)から生じるラジカル種のカップリング反応により所望の立体化学で連結しました。今回本研究グループは、ブロモ基を電子吸引基として活用し、極性官能基を損なうことなく両フラグメントの連結を実現しました。続いて、分子の三次元構造を活用して、C8-第 4 級中心を立体選択的に構築した後、予め両フラグメントに備えた官能基を用いた 8 員環形成反応により、非常に歪みのかかった橋頭位オレフィンを有するタキサン骨格(B 環)の構築に成功しました。最終的に、複数の酸素官能基の位置・立体選択的な導入および酸化度の調整やオキセタン D 環の構築、ならびに、保護基および立体環境の違いを活用して、タキソールが有する複数種類の 5 つのアシル基(注 9)を選択的に導入することでタキソールの全合成を総 28 工程で達成しました。〈今後の展望〉
本研究では、収束的合成戦略に基づく高酸化度フラグメントの連結により、抗がん剤タキソールの全合成を達成しました。本全合成で活用したラジカル反応は、立体的に混雑した位置での炭素—炭素結合形成における強力な手法です。タキソールをはじめとする高酸化度複雑天然物の全合成へと展開可能であり、天然物合成化学を発展させ創薬科学を進展させることが期待されます。〇関連情報:
「プレスリリース①抗がん剤タキソールの全合成」(2023/1/23)
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/z0111_90029.html発表者・研究者等情報
東京大学大学院薬学系研究科 天然物合成化学教室
井上 将行(教授)
長友 優典(講師:研究当時)
渡辺 崇央(博士課程:研究当時)
大賀 恭平(博士課程)
的場 博亮(博士課程:研究当時)論文情報
雑誌名:Journal of the American Chemical Society
題 名:Total Synthesis of Taxol Enabled by Intermolecular Radical Coupling and Pd-Catalyzed Cyclization
著者名:Takahiro Watanabe, Kyohei Oga, Hiroaki Matoba, Masanori Nagatomo, and Masayuki Inoue*
DOI : 10.1021/jacs.3c10658
URL : https://pubs.acs.org/doi/10.1021/jacs.3c10658研究助成
本研究は、日本学術振興会(JSPS)[科学研究補助金 基盤研究(S) (22H04970:研究代表者 井上将行)、基盤研究 C、学術変革領域研究(A)(22K06521, 22H05341:研究代表者 長友優典)]および卓越大学院プログラム(JPMJSP2108:採択者 渡辺崇央)の支援を受けて実施しました。
用語解説
注1) 収束的合成戦略:標的天然物の炭素骨格を複数のフラグメントに分割し、合成したフラグメント同士の連結により天然物を合成する戦略です。炭素骨格を一つ一つ構築する方法と比較して短工程化、効率化が可能です。
注2) ラジカル反応:通常は電子が 2 個 1 組で軌道上に存在しますが、ラジカルは電子が軌道上に 1 つしかありません。このラジカルを用いた反応のことであり、電気的に中性でありながら反応性が高いという性質を持ちます。
注3) 全合成:単純な構造を有する化合物から、多段階の化学変換を組み合わせて標的となる天然物を完全化学合成することです。
注4) 最長直線工程:最も工程数の長いフラグメントの原料から天然物までの総工程数です。
注5) 橋頭位オレフィン:架橋構造を有する分子構造の架橋部位にある二重結合(オレフィン)のことです。一般的に二重結合は平面構造をとっているため、平面構造をとりづらい橋頭位オレフィンは歪みがかかった構造になります。
注6) オキセタン環:飽和の 4 員環に酸素を 1 つ含んだ環状エーテル構造です。通常の飽和炭素の歪みのない理想的な結合角は約 109.5°ですが、4 員環を形成するには 90°に近くなる必要があるため、大きな歪みがかかります。
注7) タキサンジテルペン:20 個の炭素で構築された、タキソールと類似の分子骨格を有する天然物群のことです。
注8) アシルテルリド:カルボニル基(C=O の二重結合)にテルル原子が結合した部分構造のことです。高反応性なラジカル種の化学的に安定な前駆体として用いられています。
注9) アシル基:R-CO-の構造を持つ官能基のことです(R は炭素官能基を表します)。
詳細はこちら:東京大学 プレスリリース