<はじめに>
本領域より2025年度レクチャーシップ賞を賜り、2026年2月にフランス北部の3大学(ルーアン・ノルマンディー大学、パリ・サクレー大学、パリ・シテ大学)において、「Advances in Selective Oxidation Using Nitroxyl Radicals and Beyond」と題した講演を行った。本稿ではその概要を報告する。
初めてのフランス単独訪問であり、正直なところ「無事に帰って来られるだろうか」という不安からのスタートであった。しかし結果として、多くの研究者と密度の濃い議論を重ねることができ、大変実り多い一週間となった。
<2月13日(金)ルーアン・ノルマンディー大学>

仙台から羽田空港へ移動し一泊した後、翌朝14時間のフライトでシャルル・ド・ゴール空港へ到着した。その後FlixBusでルーアンへ向かうという長旅であった。
東京農工大学・長澤研究室からDominique Cahard研究室に留学中の大学院生・大澤 瞳生(とうま)さんに迎えていただき、交通事情や生活情報を教えていただいた。英語圏ではない土地への不安は大きかったが、現地で1年以上生活している日本人研究者の存在は何より心強かった。
ルーアン・ノルマンディー大学は丘陵地にあり、東北大学の青葉山キャンパスを思わせる立地であった。地下鉄開通前のバス通学時代を思い出し、どこか親近感を覚えた。
フランスでは金曜日午前の講演が多いとのことだが、この日は珍しくランチ後の講演であった。Xavier Franck博士、Jean-François Brière博士、ホストのLaëtitia Chausset-Boissarie博士、そして2025年6〜8月に報告者の所属研究室に短期滞在していたLaura Chevetさん(D3)と昼食を共にした。Lauraさんは将来欧州でポスドクとして働くことを希望しており、現在の欧米関係を考慮すると米国で働くことは想定できないとのことであった。日本からは実感しにくい欧米関係の緊張感を、研究者の進路選択という形で肌で感じた。
講演では、オキソアンモニウムイオンを活性種とするアルケン酸化反応とアミン酸化反応、ならびに安定テトラゼンラジカルカチオン塩の創製について紹介した。異例の午後開催ということもあり教授陣の参加は限定的であったが、多くの学生から鋭い質問を受け、学生の意欲の高さに感銘を受けた。なお、スライド冒頭に示した「Digitalization-driven Transformative Organic Synthesis (Digi-TOS)」という文言にLaëtitiaさんが強い関心を示された。デジタル有機合成というコンセプトは欧州でも確実に注目されており、本領域の方向性が国際的潮流と一致していることを再認識した。
講演の後、Laëtitiaさんの研究室を見学させていただいた。フロー合成装置や電解合成装置が整然と並び、現在は自動合成システムの構築に取り組んでいるとのことであった。ここでも、本領域との類似性(競合性)を感じた。
夜は大澤さんと夕食をとり、ルーアンでの一日を終えた。
<2月16日(月)パリ・サクレー大学>

週末にTER(鉄道)でパリへ移動した。フランスの鉄道については、インターネット上では治安や遅延、トイレの衛生状態について散々な情報が並ぶが、実際は快適であった(1等車を予約した効果かもしれない)。
講演当日はパリ中心部からRER B線でGif-sur-Yvette駅へ向かい、Christophe Bour教授に迎えていただいた。午前中に講演を行い、機材トラブルはあったが無事に終了した。講演後のランチでは、最近JACS誌に掲載された報告者らの論文の審査過程について質問を受け、近年のハイインパクトジャーナルに論文を掲載することの難しさについて議論が広がった。
ランチ後は、コーヒーを飲みながらBour教授にパリ・サクレー大学に縁のある研究者について教えていただいた。Henri Kagan教授の不斉触媒、Pierre Potier博士によるタキソールの半合成など、フランス有機化学の歴史の厚みを改めて実感した。
その後、Vincent Gandon教授、Marie Sircoglou教授、Bour教授とそれぞれディスカッションを行った。Gandon教授からはカルシウムイオンを活用したLewis酸触媒反応について、Sircoglou教授からはロジウムナイトレノイドによる位置選択的C–Hアミノ化の機構に関する計算化学的解釈について、Bour教授からはビニルカチオンの反応化学について,それぞれ最新の成果をご紹介いただいた。また、Bour教授からは未発表論文のドラフトについて意見を求められ、その独創性の高い内容に触れるとともに、改善点について提案させていただいた。
<2月17日(火)パリ・シテ大学>

パリ・シテ大学はルーブル美術館近くのパリ中心部に位置しており、歴史的建造物を思わせる建物内で研究活動が行われていることに驚かされた。
Guillaume Prestat教授のホストのもと、午前中に講演を行った。3回目ということもあり落ち着いて質疑応答を行えた。
Prestat教授およびErica Benedetti博士と昼食を共にした後、Jean-Noël Rebilly博士、Mélanie Etheve-Quelquejeu教授、Ericaさん、ならびにPrestat教授とディスカッションを行った。Rebilly博士とは非ヘム鉄錯体の反応中間体に関する研究について議論し、Etheve-Quelquejeu教授とは核酸を基盤としたケミカルバイオロジー研究について意見交換を行った。その過程で、報告者らの酸化的分子変換を核酸分子へ応用する可能性について議論が発展し、共同研究の可能性について今後も議論を継続することとなった。また、Ericaさんからは光学活性シクロファンの合成およびその応用に関する研究をご紹介いただいた。さらに、Prestat教授とは鉄ナイトレノイドの化学について議論し、一重項および三重項ナイトレノイドの反応性の差異に関する理解を深めた。
併せて、Ericaさんの研究室では博士課程の学生と議論する機会もいただいた。現在進行中の研究内容について率直に共有していただき、外部研究者の視点から助言を行う貴重な機会を得た。
最後に、東京大学・柴崎研究室出身のFarouk Berhal博士と挨拶し、ワインをお土産に購入して講演ツアーを終えた。
<番外編>
パリの物価は想像以上で、マクドナルドのビッグマックセットが約10ユーロ(約1900円)であった。
日曜日にパリ中心部を散歩したところ、ルーブル美術館の入口で募金詐欺に遭った。幸い20ユーロを失っただけで済んだが、事前のイメージトレーニングが足りなかったことを痛感した。
<おわりに>
今回のツアーは、異国の地で自らの化学を携えて研究者と向き合う、貴重な機会となった。初めは不安もあったが、多くの研究者の温かい受け入れに支えられ、充実した一週間となった。本機会を与えてくださった大嶋孝志先生、山口潤一郎先生をはじめ、本領域関係者の皆様に深く感謝申し上げる。またフランスで出会ったすべての研究者に御礼申し上げたい。今後、本支援が意義あるものであったと感じていただけるよう、研究をさらに深化させていく所存である。